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もうひとつの、大切な、私忙しくても、悩んでいても。無くしたくない、大切な、私。
もうひとつの世界に住む、大切な、私。 |
誰だかバレバレ
[ 平和 ]
今朝ワイドショーでやっていた、総選挙特集。 とある旧軍港にて「やっぱりこれから考えなくちゃいけないのは戦争と平和の問題とか・・・。」 ここにもいたか。戦争さえしなきゃいいんでしょ、という態度のおじさん・・・は失礼か。おにーさん???
城下町と平和都市
[ 平和 ]
市内の観光バスでガイドしてくれたお姉さんが、言っていたのだ。 広島には、歴史的建造物とか、観光するものはありません。原爆で全て壊されたから。原爆が落ちなければきっと、(毛利の城下町だし)たくさんあったはずです。でも、原爆のおかげで平和として観光客が集まるようになった。複雑な思いです。 ・・・一言もなかった。平和都市ヒロシマを訪れたつもりの私、とっても恥ずかしかった。 ほんとは22日。
本当のことは
[ 平和 ]
「爆心地の話をつたえてくれる人は、いません。」 大江健三郎『ヒロシマ・ノート』より。 ページをめくったら、この言葉。そうなのだ。 ”爆心地200メートル以内にいた人達は、光を感じるまもなく即死したでしょう”との記述。どこかで読んだけれど、そんなことわからない。だって、誰も証言を聞いていないのだから。 歴史って、一番つたえたい人が伝えられないものなのかも。
それが当然?
[ 平和 ]
今日は終戦の日。だからといって、とりたてて何かをしたわけでもない。正午にちょうど教会の鐘を聞いたが、黙祷をしたわけでもない。 夕方、人間魚雷の回天について特集をしていた。 「あの時代はね、大事な人や故郷を守るためだったら死ぬしかない、それが普通だった。」 生き残った兵士の言葉だ。先週考えていたことと重なって、複雑な気持だった。死ぬのが当然?じゃあ、”明日”ってなんのためにあるのだろうか。 月末の旅行で、宮島にもまわる。原爆が落とされたときの宮島についても、勉強しておこう。
明日
[ 平和 ]
広島の平和祈念資料館HPを見た。 子ども向けコンテンツの中に「21世紀のサダコストーリー」というアニメーションがあり、だんだんと引き込まれてしまった。中でも印象に残ったのが、この台詞。 「あの日も広島の人たちは、いつもと同じ朝を迎えたんだ。」 何とはなしに、戦時中だからいつ爆撃を受けても、死んでもおかしくないような気がしていた。けれど、そんなことはない。戦時中の子どもにだって大人になったらなりたいものがあったはず。現代の私たちと同じように明日があったはず。 広島旅行を前にして、またひとつ考えをかばんに詰めることができそうだ。
誰も知らなかった
[ 平和 ]
祖母が来た。珍しく、子どもの頃の戦争体験を話してくれた。北朝鮮のニュース、映像を見たからだっただろうか。 「考え方を全部押し付けられてね。なんだか判らないけど殴られるの、あれがすごくいやだったのよ。」 母が、訊いた。「広島の原爆の日、宇和島にいた人が夕日みたいな空を見たって言っていたけれどおばあちゃんも火が見えたの?」 祖母は新居浜の出身だ。 「そんなもう、とんでもない。第一そんな爆弾が落ちるなんて知らなかったもの、学校にいたよ。あとから、たくさん人が死んだって聞いた。」 それはそうだ。誰があの日、原爆が落ちるのを待って広島の空を眺めていただろう。全て歴史、後からわかったことなのだ。
暑い、熱い
[ 平和 ]
うだるような暑さ、とはこのことだろうか。 体温が上がってしまって、自力では調節できず、どうしようもない。数分毎にお茶を飲み、水を浴び、ひたすら寝ていた。 ふと、昨日見た展示が思い出された。「熱い」「水を下さい」・・・。 夏だ。熱いのは火だけではない、やけどだけではない、照りつける太陽の「暑さ」も、彼らは感じたのだろうか。 心の中で「ごめんね」と言いつつ、私はまた水を飲んだ。
『第二楽章』朗読会
[ 平和 ]
戦争の「恐しさ」というより「悲しみ」、 平和の「大切さ」というより「希求」。 吉永さんの「慟哭」には、すごみすら感じられた。のどからしぼり出すような、さけぶような、かすれた声。母の悲しみ。 彼女のlife workが朗読をつづけることなら、私はそれを聞きつづけよう。 追記:2006年6月、『第二楽章』第三作「沖縄編 〜ウミガメと少年〜」が発売されました。(http://d.hatena.ne.jp/ayameusui/20060630)
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