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もうひとつの、大切な、私忙しくても、悩んでいても。無くしたくない、大切な、私。
もうひとつの世界に住む、大切な、私。 |
静かな空気の中で
[ かみさま ]
先日行こうかな、と書いていながら行かなかった八幡神社に、お参りしてきました。 お参りと言っても、きちんとした信心があるわけでもなく、かといって特別神頼みしたいことがあったわけでもなく。ただ、「こんにちは〜、お久しぶりで〜す。」そんな気分でした。 家の一本脇に入って神社へ向かう道を歩くと、どこかの家からお香、そしてあちらこちらから金木犀の香りがしてきました。金木犀は秋のある日、突然香りだすんですよね。それも、オレンジの花が開ききっていないから目では気が付かない。 小さい頃住んでいた家とか、お稽古事の先生のおうち近くとか、中学校の下足室とか。金木犀の香りは、いろいろな場面を思い出させます。 鳥居に頭を下げつつくぐると、黒い立派な鶏が出迎えてくれました。酉年の元旦に初詣に来たとき、この鶏を見て「あ〜、酉年だな。」と思ったのを覚えています。だからと言ってここには毎年、干支の動物がいるというわけでは・・・いたら大変ですね。虎とか、辰・・・!? 手水を使おうとしたら、他に女の方が一人。なんだか、昼間に八幡様で人に会うって、不思議な感じがします。最近、健康に良いかしら、と思って意識して左右逆の生活をしているので、手水の作法も左右逆にしかけて一人で首をかしげてしまいました^^; 体が覚えているものって・・・だめなんですね。 お参りの後は、ふだん足を踏み入れたことのない神殿の裏側*1や、小さなお社(お稲荷さんとか)をゆっくりと回ってみました。隣が幼稚園だというのに、そこから響いてくる子ども達の声さえ遠くに聞こえるような、静かな、しずかな空間に思えました。樹と土の神様がおられるな〜、包まれているな〜、そんな気持ちでいっぱいになりました。 今はほとんど使われていないだろう神楽舞台や、先日のお祭に使われたお神輿の蔵などなど。今まで知っていたよりずっと広いので驚きました。 このブログで”かみさま”のカテゴリを選ぶ時、私は教会の話をすることが多いのですが、私にとってたったひとりの神様がいるというつもりでは、実はないのです。教会のような石の建物の中ではそれにふさわしい何かを感じるし、森の中では森の気配を感じる。・・・というより、そうでありたいと思っています。 タイトルにした「もうひとつの、たいせつな、私」の”もうひとつ”とは、そんな、感じられるものを感じ、受け入れる、といった自然体の私を求める気持ちが、根幹にあります。普段、意識して手を伸ばさなければ欲しいものが手に入らない生活の中で、自分を捻じ曲げずに受け入れるような気持ち。私にとって”かみさま”とは、そんな私に何かを与えて・・・う〜ん、違うな、言ってみれば”投げ込んで”下さるような、そんな存在です。
コロンえりかさん
[ かみさま ]
こんにちは! 梅雨の晴れ間、鳥が元気にさえずっています。 先日(11日)、大学時代の恩師に誘われて、チャペルコンサートに行ってきました。 グレゴリオからモーツァルト、そしてえりかさんのお父様であるエリック・コロンさんが作られたという現代ミサ曲まで。 えりかさんは、笑顔のとても素敵な方。そして、どこまでものびていく歌声は・・・”なんとなく”とか”癒し”で聴くのが許されないような、敬虔な気持ちで聴くことができました。 圧巻は『被曝のマリアに捧げる賛歌』。これがすばらしいと言われ、楽しみに行ったのですが、期待以上でした。今までいくつもアヴェ・マリアは聴いているし、飽きるほど聞いて、口にした言葉なのに。少し南国風の伴奏で始まるこの曲は、その音楽に螺旋のように包まれて激しく、そして優しく揺さぶられるような、そんな気がしました。 抽象的で、わかりにくい説明のしかたしかできず、残念です。ぜひ、機会があったら聴いていただきたい、お奨めの歌い手の一人です。
石井筆子さんのこと
[ かみさま ]
ここでは、筆子”先生”と呼びたい気分。滝乃川学園資料室の川尾先生が、いつも「筆子先生はね、、、」と、とても大切そうに話して下さったからだ。 筆子先生とは誰か? 明治から昭和初期にかけて生き、“鹿鳴館の華”ともてはやされた一方で女子教育と障害児教育の母であり、実は優れた創作家でもあった、らしい女性。詳しくは、『無名の人〜石井筆子の生涯』のページをご覧下さい。これは、つい先日完成・公開されたドキュメンタリー映画で、私も5月29日に初めて試写会に参加しました。 縁あって、この映画の製作当初から筆子先生のことを勉強する機会を戴いていました。学園の資料室にしまい込まれてあった小説を読んだり彼女の生涯を追ったり。すばらしい人なのだけれど、心のどこかで「お金持ちで心に余裕があるお嬢様だからできたのでは」という想いが捨て去れなかったのです。作品が完成する直前、宮崎信恵監督から「イメージが少しは変わった?」と訊かれた時も、Yesとは答えられませんでした。ただ一つ言えたのは、以前は納得がいかなかったキリスト教の影響、という部分。「貧しい人が貧しい人に寄り添うより、豊な人が貧しい人に寄り添う方が難しい」とキリストは言っているそうです。その部分に、筆子先生の姿がぴったりとあてはまった気がしました。 完成した映画、日本中、いやアメリカにまで足を伸ばして、あらゆる資料が集められていました。見れば見るほど、どうしてこんな人が日本の歴史から消えてしまったのか、不思議でなりませんでした。そして新たに気付いた事があります。まず、滝乃川学園でたくさんの子どもを抱えた筆子先生は、一方でひとりの子どもの“母”であった、ということです。母としての愛情、というようなものがどれだけあふれていたのか・・・。そして、障害者に寄り添うのは難しくはないのかもしれない、ということ。映画を見ての感想としては矛盾しているかもしれません。障害者は身の回りにたくさんいて、彼らをいつも見ているはずなのに、目にフィルターがかかっているかのようにその姿は通り過ぎていってしまう、けれど少し気をつけてみれば、そして少し手を伸ばせば、触れられる、そして何か役に立てるかもしれない、こういうことです。 実は筆子先生を描いた映画、もう一つできるのです。テレビで取り上げられもしたので、こちらの方が有名かもしれません。『筆子・その愛』です。山田火砂子監督は、ご自分も障害児の母だとか。鹿鳴館時代が中心になっているようですが、こちらも楽しみです。なんと言っても・・・! ここからは、ミーハーな話。 なんと! なんと! 歌舞伎役者の市川笑也さんが出演されるのです! 美しくて、歌舞伎界で私が2番目に好きな女形の笑也さんが男性役で? しかも滝乃川学園創設者である石井亮一先生役で! なんて素敵なんでしょう。亮一先生は、それこそ歴史の表舞台で活躍された方ではありませんが、筆子先生が愛情のピンクの炎なら静かに青い炎を燃やしておられたような方。笑也さんのブログは、ここ数日映画の話題満載で、本当にワクワクしてしまいます。この夏にクランクインだそうで、本当に楽しみです。・・・えっ? じゃあ、舞台の予定はないということ? それもなぁ〜。 筆子先生に冠する本を以下に載せておきます。読んだものもあるのでレビューをしたいのですが、それはまた。 ↑おすすめ!
お蔭
[ かみさま ]
祖父が亡くなったのは、8年前の夏だった。 お葬式の時、祖父の甥に当たる人が、祖父のよく言っていたという言葉を教えてくれた。 「俺が俺がの”が”を捨てて、お蔭お蔭の”げ”で生きろ」 祖父を育てた長姉の口癖だった、とのこと。耳で聞いたものなので正しいかどうかわからない。たぶん、”が”は”我”でもあるんじゃないかな。 NHKの朝の番組に中村勘三郎さんが出ていらして、共演した女の人が(名前忘れちゃった・・・好きなのに・・・)「いつも、”生かされている”ことを忘れない人」というようなことを言っていた。 生かされている、神様に生かされている、そして、周りの人たちのお蔭で生かされている。 ”我”を捨てるのは、難しい。私を取り囲んで、何も感じなくさせている”殻”、そして”角質”のようなもの。すこしずつ、ひょんな事で、消えかかっているような気がする。
旅行したい。
[ かみさま ]
やってみたいこと。 長崎に行きたい。 教会めぐりをしたい。 キリスト教伝来の地、そして禁教の時代も進行を守ってきた地、というだけあって、長崎にはカトリックの教会が多い。とってもきれいだし、いつまででもいられる場所、に感じられる。 私をかみさまのそばに置いてくれる人達。離れていても、いつも回りにいる気がする。
卒業
[ かみさま ]
2年間通った学校を、卒業しました。 聖歌隊の一員として迎えてもらったおかげで、ずっと神様に見守られているような気がしました。私の居場所があるような気がしました。 これから、学校には私の居場所がないけれど、神様の元には、まだ居ることができます。これって、とても心強いです。
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